【最後の瞬間】嘆きと病に彩られた岸田劉生の晩年

「岸田劉生」イメージ ブログ
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【日本人洋画】大正から昭和初期にかけて活躍した洋画家。16世紀ヨーロッパ風の写実描写や中国の宋元絵画風の表現などを取り入れ、愛娘・麗子の肖像シリーズ『麗子像』で名を高めた。しかしそんな岸田劉生も芸術の探求に情熱を注ぐあまり、しばしば周囲との摩擦や孤立を経験。また、結核を患い、健康問題に苦しみながらも創作活動を続けました。

時代に逆行した個性

7歳の愛娘を描く。北方ルネサンスの画家デューラーの影響を受けて、克明写実な人物画に執着した劉生だが、そこには「内なる美」を求めたキリスト教信者としての宗教観を見ることができる。(「東京国立博物館 コレクション 麗子微笑」より

岸田劉生は1891年、東京府(現在の東京都)に生まれました。父親は文筆家の岸田吟香であり、文化的に豊かな環境で育ちました。やがて早稲田中学を経て、1908年に東京美術学校に入学しますが、すぐに中退し、独学で絵画を学び始めました。

活動初期

1912年、洋画団体「白馬会展」に初出品し、注目を集めます。1914年、「フュウザン会」に参加し、革新的な活動を展開。ヨーロッパの前衛芸術や印象派の影響を受けた作品を発表しました。

作風の発展

独自のスタイル

1910年代後半から1920年代にかけて、彼の作風は独自のものに成熟します。特に彼の娘である麗子をモデルにした一連の作品は有名です。『麗子像』は、細部まで丁寧に描写され、その表現力と内面的な深さで知られています。

明暗法

岸田劉生の作品は、光と影の強調、豊かな色彩感覚、そしてリアリズムに根ざした写実的な描写が特徴です。

晩年と影響

西洋と日本の融合

岸田劉生は、西洋の技法と日本の伝統美術を融合させることに努めました。そして作品には、琳派や浮世絵などの日本美術の影響が見られます。

文筆活動

また画家としてだけでなく、文筆家としても活動し、美術評論や随筆を多く執筆しました。これにより、彼の思想や美術観が広く知られるようになりました。

早逝

しかし、1929年、岸田劉生は38歳の若さで急性腹膜炎により亡くなりました。

市場と評価

さて、そんな岸田劉生の現在の「市場と評価」ですが・・・

肖像シリーズ『麗子像』の変遷が様式の変化。やはり『麗子像』が高値。また風景画として鵠沼(現在の神奈川県藤沢市)を描いた作品も人気がある。(ギャラリーボヤージュより

おわりに

「マチスのバカヤロ! 」晩年は、日本画壇を支配していたフランス印象派に対し、嘆いていたそうです。慢性腎臓炎による視力障害を発症し、最期は大量の吐血と共に亡くなりました。死因は胃潰瘍と腎臓病に尿毒症を併発とも。

ちなみに…
先ほど岸田劉生は「東京生まれ」と明記しましたが、実は銀座2丁目の薬舗「楽善堂」を経営する岸田吟香(ぎんこう)の四男として生まれました。今でいうと銀座2丁目の銀座中央通りに面したところだそうです。

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