【外国人洋画】スペイン出身の20世紀最大の巨匠。めまぐるしい作風の変遷で、後世の画家に大きな影響を与えた。バルセロナとパリで「青の時代」と「ばら色の時代」を展開させ、その後キュビズムの方法論を確立。以後も新古典主義、シュルレアリスムへと続いた。そして、作品『ゲルニカ』は、スペイン内戦とファシズムに対する強烈な抗議として知られています。
戦争で荒廃した大虐殺を
「太陽を黄色い点に変える芸術家もいれば、その技術と知性によって黄色い点を太陽に変える芸術家もいる」スペイン内戦の悲劇に深く心を痛めたピカソは、おそらく彼の最も政治的な作品である『ゲルニカ』(1937年)を制作しました。これは、壁画サイズの絵画で、戦争で荒廃した大虐殺を、対照的なグレースケールのギザギザした形で表現しています。(Artnetより)
第二次世界大戦中、ピカソはナチス占領下のパリに留まり続け、戦後も精力的に創作活動を続け、晩年には南フランスに移住し、そこで多くの作品を生み出しました。
生涯の概略
幼少期と教育
ピカソはスペインのマラガで生まれました。父親は画家で美術教師であり、幼少期からピカソに絵画の技法を教えました。彼の才能は早くから顕著で、14歳でバルセロナの美術学校に入学しました。さらに、16歳でマドリードのサン・フェルナンド王立美術アカデミーに進学しますが、伝統的な教育に飽き足らず、独自の道を模索し始めます。
青の時代とバラ色の時代
1901年から1904年にかけて、ピカソは「青の時代」と呼ばれる期間に入りました。この時期の作品は、青を基調とした陰鬱な色調が特徴で、貧困や孤独をテーマにしています。その後、1904年から1906年にかけて「バラ色の時代」に移行し、色調は暖かいピンクやオレンジに変わり、サーカスの人々や道化師などを題材とした作品が多くなります。
キュビスムと革新
1907年、ピカソはジョルジュ・ブラックと共にキュビスムを創始しました。この新しいスタイルは、対象を幾何学的な形に分解して再構築する手法であり、特に『アヴィニョンの娘たち』がその代表作です。キュビスムは美術界に大きな衝撃を与え、その後の現代美術に多大な影響を与えました。
多様なスタイルと実験
ピカソの芸術は常に進化し続けました。1910年代後半から1920年代には、新古典主義やシュルレアリスムに触発された作品を制作しました。また、絵画だけでなく彫刻や版画、陶芸などにも取り組み、多岐にわたる媒体で創作活動を行いました。
晩年と遺産
ピカソは1973年に91歳で亡くなるまで、創作意欲を失うことなく、数多くの作品を制作し続けました。その遺産は、現代美術に多大な影響を与え続けております。
市場と評価
さて、そんなピカソの現在の「市場と評価」は・・・
1番人気は20代の「青の時代」。「青の時代」(1901~1904年ぐらい)の作品の評価が高い。小品でも何十億円もする場合があります。次に「キュビズム」、「後期」となっていますが、もちろん作品によって価格が違います。版画でも何千万円するものも何点かございます。(ギャラリーボヤージュより)
なおピカソの作品で最も高額で落札されたのは、『アルジェの女たち(バージョンO)』(1955年)で、2015年Christie’sで1億7940万ドル(約215億円)で落札されました。
おわりに
アーティストであり、ビジネスマンであり、異端者でもあったピカソ。80歳になった頃には愛人だったジャクリーヌと結婚。しかし、やがてピカソは1973年に死去。膨大な遺品と遺産を相続し、城を3つ所有する資産家になった、そんなジャクリーヌ未亡人でしたが、1986年、59歳のとき城で謎のピストル自殺をとげたのです。そんな悲劇があったとは…
ちなみに…
ピカソを扱った映画として、ジェームズ・アイヴォリー監督作品で、主演がアンソニー・ホプキンスのイギリス映画「サバイビング・ピカソ」 (1996年)(Wikipediaより)があります。またアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督が撮ったフランス映画「ミステリアス・ピカソ/天才の秘密」 (1957年)(Wikipediaより)は、ピカソ自身がキャンバスに描く様子をリアルタイムで捉えたドキュメンタリー作品です。