【現代アート】抽象絵画の創始者の一人。初期のころは、故郷オランダの風景画を描いておりました。抽象的な作風に変化するのは、ピカソやブラックなどのキュビスムに影響を受けたことによります。その頃から画面は徐々に単純化し始めました。そんなモンドリアンですが、第二次世界大戦中にナチスによって一時的に投獄も経験しております。
前衛芸術や東洋神秘主義の影響も
「私はできる限り真実に近づきたいので、物の根本的な性質に到達するまですべてを抽象化します」キュビズムや点描主義といった当時の前衛芸術や東洋神秘主義の影響を受け、モンドリアンは抽象化を通して自然の根底にある精神的性質を発見することにますます興味を持つようになった。(Artnetより)
やがて直線と原色を用いた独自のスタイル「デ・ステイル」運動における貢献で有名となります。
生涯の概略
幼少期と教育
モンドリアンは、オランダのアメルスフォールトで生まれました。本名はピーテル・コルネリス・モンドリアン(Pieter Cornelis Mondriaan)です。彼の家族は芸術的な背景を持ち、父親は美術教師であり、叔父も画家でした。この環境の中で、モンドリアンは早くから絵画に親しみました。
初期のキャリア
モンドリアンは、アムステルダムのリートフェルト・アカデミーで美術を学び、19世紀末から20世紀初頭にかけて、オランダの風景画家として活動を始めました。この時期の作品は、主に自然主義や印象派の影響を受けています。
パリとキュビスムの影響
1911年にパリに移住したモンドリアンは、キュビスムに触発され、作品のスタイルが大きく変化しました。キュビスムは、物体を幾何学的な形に分解し再構成する手法であり、モンドリアンはこれに影響を受けて抽象画への転向を始めました。
デ・ステイル運動
1917年、モンドリアンはオランダに戻り、デ・ステイル(De Stijl)運動を共同で創始しました。この運動は、純粋な抽象と幾何学的形態を重視し、色彩は主に原色(赤、青、黄)と黒、白、グレーを用いるものでした。モンドリアンのスタイルは、この時期に「新造形主義(ネオ・プラスティシズム)」と呼ばれる独自のものに発展しました。
ニューヨークへの移住と晩年
1940年、モンドリアンは第二次世界大戦を避けてニューヨークに移住しました。ニューヨークでは、彼のスタイルがさらに洗練され、より大胆で活気に満ちた作品を生み出すようになりました。代表作には『ブロードウェイ・ブギウギ』(1942-1943年)があり、この作品はニューヨークの都市のエネルギーとリズムを反映しています。
死去と遺産
1944年にニューヨークで亡くなるまで、モンドリアンは抽象絵画の発展に大きく貢献しました。彼の作品は、ミニマリズムや現代デザインに多大な影響を与え続けています。
市場と評価
さて、そんなモンドリアンの現在の「市場と評価」は・・・
複製画、ポスターは国内で目にしますが、やはり海外アート市場が主流になり、オリジナル作品が国内のアート市場で出品されることは、ほぼ無いです。版画自身も流通性はかなり低いです。(ギャラリーボヤージュより)
なおモンドリアンの作品で最も高額で落札されたのは、《Composition No. II》(1930年)で、2022年ニューヨークのSotheby’sで5100万ドル(約71億円)で落札されました。
おわりに
モンドリアンは生涯を通じて数多くの著作を出版しており、その中には先に触れた「新造形主義(ネオ・プラスティシズム)」に関する本もあり、後世の抽象画家に影響を与えました。
ちなみに…
今年9月初め終了した東京・神谷町の「麻布台ヒルズ ギャラリー」で35年ぶりに個展が開催された、動く彫刻「モビール」で有名なアレクサンダー・カルダーもモンドリアンに影響を受けたアーティストのひとり。「1930年ピエト・モンドリアンのアトリエ訪問は、抽象芸術を受け入れるきっかけになるかつてないショックを彼に与えた。」と。(Wikipediaより)