【日本画】近代日本画を代表する巨匠。明治元年に生まれ、大正、昭和の90年を生き、近代の「西洋画」に対する「日本画」を代表する日本画家です。そんな横山大観ですが、若い頃は評価されず、50代になってから日本美術院の再建などで重要な役割を果たし、名声を得ました。
芸術も政治も人間
「芸術でも政治でもなんでも、これは人をみる。人間ができていなければ芸術はできません。」 (NHKアーカイブスより)
幼少期。水戸藩士の家に生まれ、幼少期から絵に親しみました。やがて、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。岡倉天心や橋本雅邦に師事しました。彼はこの学校の第一期生で、ここでの教育が後の作風に大きな影響を与えました。
初期の活動
卒業後、1893年に東京美術学校を卒業し、すぐに母校の助教授として教壇に立ちました。この時期から同じく岡倉天心のもとで学んだ菱田春草と共に、新しい日本画の創造に取り組み、やがて、1896年、岡倉天心に従ってインド、欧米を視察し、海外の美術に触れることで自身の芸術観を深めました。
新日本画の確立
日本美術院の設立
1898年に岡倉天心と共に日本美術院を設立。従来の日本画の枠にとらわれない新しい表現を追求しました。
代表作の発表
この時期の代表作には「夜桜」「生々流転」などがあり、作風が次第に確立されていきました。
近代日本画の発展
円熟期
1920年代から1930年代にかけて、多くの優れた作品を発表。
社会的な活動
また、芸術団体の設立や運営にも積極的に関わり、1935年には日本美術院の再興に尽力しました。
晩年と死後
晩年の活動
晩年は、さらに多くの作品を生み出し、1950年には文化勲章を受章。多くの展覧会も開催されました。しかし、1958年に東京で逝去。その遺産は現在も多くの人々に愛され続けています。
市場と評価
さて、そんな横山大観の現在の「市場と評価」ですが・・・
「富士画の大観」とも呼ばれた横山大観。やはり富士を描いた作品の評価は高いです。ただ、同じ富士でも作品によって、500万円~5000万円ぐらい開きがあります。(ギャラリーボヤージュより)
おわりに
芸術に関しても、「人間性」を唱えていた横山大観ですが、当の本人はかなりの大酒飲みで、90歳まで生き(死因は急性気管支肺炎)、死後解剖したところ肝臓には異常もなく、他の内臓も60代の若さだったそうです!
ちなみに…
横山大観が登場する映画として、「天心」(2013年)(Wikipediaより)があります。思想家で文人でもあり、日本美術の再興に尽力をつくした岡倉天心と彼の弟子たちである横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山の創作活動と葛藤の日々を描いた伝記ドラマ。なお横山大観は中村獅童が演じられております。