【外国人洋画】19世紀中心に活躍したフランスのポスト印象主義の画家。「総合主義」という様式を提唱し、単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成することを特徴としました。1891年、ゴーギャンはフランスを離れ、南太平洋のタヒチに移住。さらに晩年、1901年にタヒチを離れ、フランス領ポリネシアのマルキーズ諸島に移住しました。そんなゴーギャンの生涯は、常に新しい表現を求め続けた冒険と探求の旅だと思われがちですが、しかし実情はもっと複雑だったようです。
大胆な色使いと原始的な主題
「自然を直接描きすぎないこと。芸術は抽象である」とゴーギャンはかつて宣言しました。また「自然を学び、それからそれを熟考し、結果として生じる創造物を大切にすること。それが神に近づく唯一の方法です。」とも語っています。(Artnetより)
ゴーギャンは、パリで生まれましたが、幼少期をペルーで過ごしました。彼の母親はスペインとペルーの血を引いており、この異文化の経験が後の作品に影響を与えたと言われています。1865年、17歳のときにフランス海軍に入隊し、その後は商船に乗り組んで世界中を旅しました。
生涯の概略
キャリアの始まり
1871年、ゴーギャンはパリに戻り、株式仲買人として働き始めました。同時に絵画にも興味を持ち、アマチュア画家として活動を開始しました。印象派の画家たちと交流を深め、特にカミーユ・ピサロに影響を受けました。
プロの画家への転身
1882年、株式市場の崩壊をきっかけに、ゴーギャンは画家としての道を本格的に歩み始めました。彼はデンマークに移住し、コペンハーゲンで絵を描きましたが、成功を収めることはできませんでした。その後、フランスに戻り、ブルターニュ地方のポン=タヴァンに移住しました。ここで多くの画家たちと交流し、独自のスタイルを確立していきました。
タヒチへの移住
1891年、ゴーギャンはフランスを離れ、南太平洋のタヒチに移住しました。彼はここで、西洋の文明から離れた原始的な生活を求め、タヒチの風景や人々を題材にした多くの作品を制作しました。この時期の代表作には『タヒチの女』(1891)や『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(1897-1898)などがあります。
晩年と死
ゴーギャンは、1901年にタヒチを離れ、フランス領ポリネシアのマルキーズ諸島に移住しました。健康状態は悪化し、経済的にも困窮していましたが、精力的に制作を続けました。そして1903年、ゴーギャンは54歳でマルキーズ諸島のヒバオア島で亡くなりました。
市場と評価
さて、そんなゴーギャンの現在の「市場と評価」は・・・
基本的に農村など日常の風景などが主だが、タヒチの風景などは段違いに高値がつきます。(ギャラリーボヤージュより)
なおゴーギャンの作品で最も高額で落札されたのは、『マタニティ II』(1899年)で、2022年Christie’sで1億573万ドルで落札されました。やはりタヒチの女性が描かれた作品です。
おわりに
ゴーギャンに関しては、経歴から順風満帆な人生だと思ってましたが、晩年のタヒチ時代も、実情はもっと複雑だったようです。帰還の希望もあったが、周囲の期待の目線も有り、35歳で職を捨て、専業画家で生きるが、売れないことも。やがて健康を害しました。
ちなみに…
ゴーギャンの画題と定年を迎えた銀行マンの人生になぞられたサスペンスドラマとして、個人的には、松本清張の小説をドラマ化した「最後の自画像」に思い入れがあります。脚本は向田邦子。松本清張の短編小説で、タイトルは「駅路」(えきろ)。過去4度テレビドラマ化されているそうです。(Wikipediaより)