【画家の情熱】絵筆に生涯を捧げたルノワールの美への執念

「ピエール・オーギュスト・ルノワール」イメージ ブログ
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【外国人洋画】フランスの印象主義の画家。揺らめく光と雰囲気を効果的に捉え、パリの風俗の中で遊びに興じる人々などを好んで描きました。そんなルノワールですが、晩年は、リウマチに苦しみ、71歳の時にリウマチの名医に治療を受けるも歩く事より絵を描くことを優先にしたそうです。

芸術の探求と幸福感の表現

「私にとって、絵とは楽しいものでなければなりません。楽しくて、きれいなものでなければなりません。そう、きれいなものです。人生には、作り出せないほど多くの不快なことがあるのです」と語っています。(Artnetより

ルノワールの生涯は、芸術の探求と幸福感の表現に捧げられ、その作品は今もなお多くの人々に喜びと感動を与えています。

生涯の概略

初期の人生

ルノワールはフランスのリモージュで生まれました。彼の父は仕立屋で、家族はルノワールが4歳の時にパリに移住しました。幼少期から絵に興味を持ち、13歳で磁器の絵付け工場に見習いとして入ります。この工場での経験が、彼の色彩感覚を養う基礎となりました。

美術教育と初期のキャリア

1862年、ルノワールはシャルル・グレールのアトリエに入学し、そこでクロード・モネ、フレデリック・バジール、アルフレッド・シスレーと出会います。彼らとの友情と共同作業が、後の印象派運動の基盤を築きました。

印象派運動

ルノワールは、1874年の最初の印象派展に参加し、その後も複数の印象派展に作品を出展しました。彼の作品は、明るい色彩と軽やかな筆致、そして日常の幸福感を捉えることに特徴があります。代表作には『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』(1876)や『舟遊びをする人々の昼食』(1881)が含まれます。

成熟期と後期の作品

1880年代に入ると、ルノワールの作風は変化し、より伝統的なスタイルに回帰しました。彼はイタリアを訪れ、ルネサンス絵画に触発されて、より滑らかで輪郭の明確な作品を描くようになりました。この時期の代表作には『傘』(1881-1886)があります。

晩年と影響

ルノワールは晩年、関節リウマチに苦しみましたが、絵を描き続けました。1907年には南フランスのカーニュ=シュル=メールに移住し、温暖な気候の中で制作を続けました。彼は特に女性像や家族の風景画を好み、多くの愛らしい作品を残しました。代表作には『浴女たち』(1918-1919)があります。

死と遺産

1919年、ルノワールは78歳で亡くなりました。彼の作品は生涯を通じて約6000点にも及び、その多くが世界中の美術館や個人コレクションに所蔵されています。

市場と評価

さて、そんなルノワールの現在の「市場と評価」は・・・

1800年代のルノワールの作品はタッチが細かく、この時期の評価は価値が高いです。晩年になってくるとタッチが荒くなり、この時期は森の風景、少女、婦人などを描いた作品が多いです。(ギャラリーボヤージュより

少し古いデータですが、Sotheby’sによると、2003年から2017年の間にオークションで再販されたルノワールの作品の平均複利年間収益率は5.0%で、295点の作品のうち75.6%の価値が上昇したとの事。もちろん現在も国内でも人気の画家です。

おわりに

「畜生、なんて美しいんだ!くそっ、なんてこの世は美しいんだ!」ルノワールが遺した言葉です。38歳から交通事故の後遺症と向きあい、71歳の時、リウマチの名医に治療を受ける際、歩く事より絵を描くことを優先にしたそうです。最後の20年は、手に鉛筆を縛りつけてまで、絵を描きつづけたそうです。

ちなみに
ルノワールの次男のジャン・ルノアール(1894-1979)は映画監督で(Wikipediaより)、個人的には「ピクニック Partie de campagne」(1936年)(Wikipediaより)という作品に思い入れがあり、それこそシネスイッチ銀座でリバイバル上映された際、劇場で鑑賞した思い出があります。ストーリー自身はぜんぜん思い出しませんが!?、モノクロ映画ですが、父親の作風同様、逆光の揺らめく光や、自然の中で陽気に人々が楽しげに寛ぐイメージだけは強く印象に残っております。

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