浅井忠
浅井忠(あさいちゅう)
情感あふれるリアリズムによる日本風土の発見
佐倉藩士の長男として江戸後期に生まれ、明治中期の日本洋画に大きな貢献をした画家。詩情あふれる自然主義の作風で知られ、また教育家としても優れていた。浅井忠は、世代的には高橋由一と黒田清輝の狭間で、高橋由一のようにゼロからの出発というのでもなく、また黒田清輝のように留学という恵まれた環境によって、基礎技術を学んだのでもない。同作家の場合は、日本最初の美術教育機関であった工部美術学校で、画学教師だったイタリア人画家アントニオ・フォンタネージから受けた教育が、すべての基礎であった。その師フォンタネージが帰国に際して言った言葉「今後は天然を師として勉強せよ」 を拠りどころに制作に励みました。
情感豊かなリアリズム
ただ明治期にかけて活躍した作家でもあるためか、一級品の油彩作品はなかなか美術館での鑑賞以外、拝見することも難しい作家でもあります。国内のアート市場でも寡作の作家の方に入ります。
フランスの田舎を写した珠玉の風景画
主な作品種類は、油彩、水彩、鉛筆など。水彩画の制作に関しては同作家がフランスへ遊学中に没頭したそうです。なお鑑定機関は東京・虎ノ門の東京美術倶楽部になります。
浅井忠 略歴
安政3年(1856)-明治40年(1907)
江戸に生まれ。京都で没。はじめは黒沢槐山について日本画を学ぶ。
明治8年 | 彰技堂で国沢新九郎の指導を受ける。 |
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同9年 | 工部美術学校に入学、アントニオ・フォンタネージに薫陶を受けた。師の帰国後、同志と十一字会を結成して研究をつづける。 |
同22年 | 明治美術会を創立。 |
同31年 | 東京美術学校教授となる。 |
同33年 | フランスに留学。 |
同35年 | 帰国後、京都高等工芸学校教授となり、京都に移った。聖護院洋画研究所を設け、のちに関西美術院に発展して院長となった。 |
浅井忠 代表作品
- ≪春畝≫
- ≪収穫≫
- ≪グレーの秋≫など
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