【外国人洋画】クリムトと同時代の、20世紀初頭にオーストリアで活躍した画家。アカデミックな教育に裏付けられた確かな描写力で、多くの鋭い人物描画を発表。そんなエゴン・シーレもクリムト同様、作品は当時の社会からスキャンダラスと見なされ、一時期投獄されるなど、波乱に満ちた人生を送りました。
挑発的で表現力豊かに
友人であり師でもあったグスタフ・クリムトが率いるウィーン分離派として知られる芸術家グループと密接な関係がありました。 しかし、クリムトとは異なり、エゴン・シーレの絵画や素描は構成が簡素で、誇張された筋肉組織と四肢に特に重点を置いた人物の様式化された表現に焦点を当てており、指、髪、乳房、性器はすべて特別な注意を払って描かれています。(Artnetより)
エゴン・シーレ作品は、痩せ細った人体や歪んだポーズが特徴であり、強烈な感情表現が感じられます。また、独特の線描と大胆な色彩が彼のスタイルを特徴付けています。
初期の人生と教育
生誕と家庭
エゴン・シーレは1890年、オーストリア=ハンガリー帝国のトゥルン・アン・デア・ドナウで生まれました。父親は鉄道員であり、厳格な家庭環境で育ちました。
幼少期の興味
幼少期から絵画に強い興味を示し、周囲の風景や人物を描くことに没頭していました。
美術教育
1906年、16歳でウィーン美術アカデミーに入学し、伝統的な美術教育を受けました。しかし、エゴン・シーレはアカデミックな教育に満足せず、自分のスタイルを模索し始めました。
グスタフ・クリムトとの出会い
クリムトの影響
ウィーン分離派の中心人物であったグスタフ・クリムトと出会ったことで、エゴン・シーレの画風は大きな影響を受けました。クリムトはエゴン・シーレの才能を高く評価し、彼を支援しました。
分離派と新しい芸術運動
クリムトの影響下で、エゴン・シーレはウィーン分離派の美学に触発され、自身のスタイルを発展させました。
法的問題と創作活動
逮捕と裁判
1912年、エゴン・シーレは未成年者のモデルに関するスキャンダルで逮捕されました。この事件により、彼の作品は一部没収され、彼自身も短期間投獄されました。この経験は、エゴン・シーレの創作にさらなる影響を与えました。
創作の深化
1910年代中頃から後半にかけて、彼の作品はより内面的で複雑なテーマを取り扱うようになり、自己のアイデンティティや存在の本質を探求しました。
戦争と晩年
結婚と家庭
1915年にエーディト・ハルムスと結婚しました。彼の妻は多くの作品にモデルとして登場し、彼の創作活動において重要な存在となりました。
第一次世界大戦
第一次世界大戦中、エゴン・シーレは徴兵されましたが、前線に送られることはなく、主に事務仕事に従事しました。この期間も絵を描き続け、多くの重要な作品を生み出しました。1918年、スペイン風邪がヨーロッパ中で猛威を振るい、エゴン・シーレもこれに感染しました。そして1918年10月エゴン・シーレは28歳の若さで病死しました。
市場と評価
さて、そんなエゴン・シーレの現在の「市場と評価」は・・・
エゴン・シーレの場合も、やはり油彩作品などは美術館での鑑賞するぐらいしか拝見することも難しい作家でもあります。国内のアート市場で出品されることは、ほぼ無い状況です。(ギャラリーボヤージュより)
少し古いデータですが、Sotheby’sによると、2003年から2017年の間にオークションで再販されたエゴン・シーレ作品の平均複利年間収益率は8.0%で、その作品102点のうち92.2%の価値が上昇したとの事。やはりクリムト同様、エゴン・シーレの原画作品も海外のオークション会社が主流。
おわりに
エゴン・シーレは死の直前に妻エーディトのスケッチを遺しています。しかしそのエーディトもスペイン風邪によって、エゴン・シーレの死去する3日前に亡くなっています。その時、妊娠6カ月でした。そして数日後、妻の後を追うことに……その時エゴン・シーレはまだ28歳でした。
ちなみに…
そんなエゴン・シーレを扱った映画では、比較的近年ですが「エゴン・シーレ 死と乙女」(2017年)(Wikipediaより)があります。エゴン・シーレと、ヌードモデルを務めた女性たちとの関係に焦点を当てて描き出した伝記ドラマ。