【ウィーン分離派の巨匠】クリムト、官能美の黄金時代

「グスタフ・クリムト」イメージ ブログ
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【外国人洋画】オーストリアを代表する画家。前期には壮麗な歴史画の影響を受け、ウィーン分離派(19世紀末、ドイツ・オーストリア各地でおこった絵画・建築・工芸などの革新運動。)を確立。金地を用い、装飾的に表現された女性像は世紀末の妖しい魅力と不安定さを表現した。そんなクリムトですが、反体制的な行動や性的なスキャンダルで逮捕されたこともありました。

装飾的で象徴的な作品群

象徴主義の巨匠であるクリムトは、『ダナエ』(1907年)に示されているように、宝石のような色合いの絵画、版画、素描で女性の体を官能的に描くことが多かった。この芸術家はまた、『バウアーンガルテン』(1907年)などの華やかな正方形の風景画や、金箔と交互に並ぶ色のブロックを使用した『生命の樹』(1905年)の自然の神話的描写も描いた。(Artnetより

クリムトの作品は装飾的な要素が強く、複雑なパターンや金箔を多用しています。これにより、彼の作品は視覚的に非常に豊かで魅力的なものとなっています。

初期のキャリア

兄弟と仲間との活動

兄のエルンストと友人のフランツ・マッチュとともに「カンパニー・オブ・アーティスツ」というグループを結成し、劇場の装飾や天井画の制作を手掛けました。これにより、彼らは公的な建築プロジェクトに多く参加するようになりました。

初期の成功

1886年から1888年にかけて、ウィーンのブルク劇場の天井画を手掛け、これが大きな成功を収めました。この成功により、クリムトはウィーンの上流社会で名を知られるようになりました。

ウィーン分離派と黄金期

ウィーン分離派

1897年、クリムトはウィーン分離派(セセッション)の創設メンバーの一人となり、初代会長に就任しました。分離派は伝統的な芸術アカデミーの規範に挑戦し、新しい芸術表現を模索するグループでした。

黄金期

1900年から1910年頃までのクリムトの作品は「黄金期」と呼ばれ、特に金箔を用いた装飾的な作風が特徴です。この時期の代表作には『接吻(Der Kuss)』(1907年)、『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I(Adele Bloch-Bauer I)』(1907年)があります。

晩年と死

健康問題と死

晩年には健康を害し、1918年に脳卒中と肺炎のため、ウィーンで55歳で亡くなりました。

市場と評価

さて、そんなクリムトの現在の「市場と評価」は・・・

エスタンプ(複製版画)はよく目にしますが、やはり油彩作品などは美術館での鑑賞するぐらいしか拝見することも難しい作家でもあります。国内のアート市場で出品されることは、ほぼ無い状況です。(ギャラリーボヤージュより

少し古いデータですが、Sotheby’sによると、2003年から2017年の間にオークションで転売されたクリムト作品の平均複利年間収益は4.9%で、76点の作品のうち76.3%の価値が上昇との事。やはり原画は海外のオークション会社が主流。

おわりに

55歳でクリムトは亡くなりましたが、スペイン風邪だとも言われております。奇しくもエゴン・シーレも同じ1918年に同じスペイン風邪がもとで死亡しています。2人には30歳近い年齢差がありますが、師弟の関係であり、友人のような関係でもありました。

ちなみに…
画家クリムトを扱った映画として、ジョン・マルコヴィッチが演じた「クリムト」(2006年)(Wikipediaより)という伝記映画が。またクリムトが描いた「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」を巡る裁判の顛末を描いたアカデミー賞女優ヘレン・ミレンの主演作「黄金のアデーレ 名画の帰還」(2015年)(Wikipediaより)があります。

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