平野遼
平野遼(ひらのりょう)
孤独を創作の原点に
福岡県出身の洋画家。17歳で軍隊に入り、野砲通信兵となる。終戦とともに北九州市に帰り、米軍基地内でポスター描きをして働く。人間と社会の闇を凝視し、幻想的な作風で新しい造形表現を追求した。
絵画を独学で学び、福岡県の北九州市小倉を拠点に活動してました。では、そんな平野遼について当ギャラリーの見解をお伝えさせていただきます。
全体的に茶を基調にした深みのある作風
人物画、風景画を特に描いてきた平野遼ですが、やはり周りの風景と一体となった人物画の方が人気で、さらに「母子像」、「子供」が描かれた作品は評価が高い。主な作品の技法は、油彩、水彩、鉛筆など。
晩年はデフォルメされた人体像による象徴的作風へ
1970年代以降、アルベルト・ジャコメッティに傾倒し、細い線によって空間とせめぎ合うように存在する人体を表現。色調は褐色系暗い調子から渋みのある灰白色へと移行した。もちろんやはり真贋も重要になってきます。特に原画の場合、作家によっては鑑定の有無が決め手になります。日本の画壇では、作家それぞれに鑑定機関を設けております。なお平野遼の鑑定機関は東京・銀座の日本洋画商協同組合鑑定登録委員会になります。
平野遼 略歴
大正14年(1925)-平成4年(1992)
福岡県に生まれ、同地で没。
昭和24年 | 第13回新制作派展で初入選。 |
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同25年 | 東京から九州へ転居し小倉にアトリエを構えて制作。 |
同26年 | 第15回自由美術家協会展に初入選し、以後同展に出品を続ける。 |
同37年 | 第5回現代日本美術展に出品したころから画壇に登場。 |
同39年 | 自由美術協会会員を経て、主体美術協会の創立に参加。 |
同42年 | 安井賞展に出品して注目されるようになる。 |
同50年 | 主体美術協会を退会して無所属となった。 |
同54年 | 中央アジア旅行以降砂漠に生きる人々を主題に描く。「平野遼自選画集」、画文集「熱風の砂漠から」が刊行されている。 |
平野遼 代表作品
- ≪昼と夜≫
- ≪裸形の風景≫など
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