【孤独な青春】バスキアの原点。王冠に秘められた母との絆

「ジャン=ミシェル・バスキア」イメージ ブログ
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【現代アート】ニューヨークのブルックリン出身で、1980年代に成功を収めた影響力のあるハイチ系アメリカ人アーティスト。しかし、若くしてドラッグ依存に陥り、27歳でヘロインの過剰摂取により亡くなりました。

多面的な意味を持った象徴

「影響力について語りたいのなら、影響力は影響力ではないと理解する必要があります」と彼は自分の制作プロセスについて語りました。また「それは単に誰かのアイデアが私の新しい頭をよぎっただけだ」 (Artnetより

そう当人は語ってますが、原始的で力強いタッチ、強烈な色彩、そして象徴的なモチーフで知られ、しばしば社会的なテーマや人種問題、歴史的な事象を作品に取り入れたと一般的には語られます。

初期の人生

生誕

バスキアは1960年、ニューヨーク市ブルックリンで生まれました。父はハイチ出身で、母はプエルトリコ出身でした。

幼少期

幼少期からアートに興味を持ち、母親の影響で美術館巡りを楽しんでいました。7歳のとき、車に轢かれ、長期入院した際に解剖学の本に触れ、これが後の作品に影響を与えました。

ストリートアートとSAMO

ストリートアート

1970年代後半、バスキアはニューヨークのストリートアートシーンに飛び込み、友人とともに「SAMO」という名前で落書きを始めました。これが徐々に注目を集め、アンダーグラウンドのアートシーンで名を馳せるようになりました。

SAMOの終焉

1979年、SAMOプロジェクトが終わりを迎えたとき、バスキアは「SAMO IS DEAD」とニューヨーク中に落書きし、自らのストリートアート時代に幕を下ろしました。

アートキャリアの飛躍

個展の成功

1980年代初頭、バスキアはギャラリーや展覧会での展示を通じて注目を集め始めました。1981年には、著名なキュレーターであるディエゴ・コルテスの助けを借りて「New York/New Wave」展に参加し、大きな成功を収めました。

アンディ・ウォーホルとの交流

バスキアはポップアートの巨匠アンディ・ウォーホルと親交を結び、共にコラボレーション作品を制作しました。この関係はバスキアのキャリアに大きな影響を与え、彼の作品の評価をさらに高めました。

晩年と死

成功と苦悩

1980年代中盤、バスキアは国際的な成功を収め、多くの作品が高値で取引されるようになりました。しかし、彼はこの成功とプレッシャーに苦しみ、ドラッグやアルコールに依存するようになりました。

早逝

1988年8月12日、バスキアはヘロインの過剰摂取により27歳の若さで亡くなりました。

市場と評価

さて、そんなバスキアの現在の「市場と評価」は・・・

やはり海外アート市場が主流になり、オリジナル作品が国内のアート市場で出品されることは、ほぼ無いです。版画自身も流通性は低いです。(ギャラリーボヤージュより

2017年競売大手サザビーズで、当時ZOZOTOWNを運営していたスタートトゥデイ代表取締役だった前澤友作氏が、「無題(1982年)」を1億1048万7500ドル(約123億円)で落札。当時ニュースにもなり話題にもなりました。なお前澤氏は、2016年5月にも今度はクリスティーズのオークションで、同じくバスキアの《Untitled》を当時のアーティストレコードである5728万5000ドル(約62.4億円)で落札されました。※その作品は後日2022年5月ニューヨークで開催されたフィリップス主催のオークションで出品され、落札価格は8,500万ドル(約110億円)で取り引きされております。

おわりに

絵の中でよく描かれる王冠も、先に触れた7歳の時の入院した際に、お母さんが病室に持ち込んだ解剖書が由来しているそうです。アート好きだったお母さんとの絆の強さを感じるエピソードですが、そのお母さんはバスキアが13歳の時、精神病院に入院に。両親の離婚後、父親側に引き取られたが、父親とは折り合いが悪く、17歳の時にその父親に家を追い出され、友人の家に居候をすることに。その際自身で制作したTシャツやポストカードを販売して生計を立てていたそうです。

ちなみに…
そんなバスキアを扱った映画として、生前から親交があった画家のジュリアン・シュナーベルが監督した「バスキア」(1996年)(Wikipediaより)があります。この作品バスキア役を舞台出身でこれが初の映画主演作となるジェフリー・ライトが演じ、さらにデヴィッド・ボウイがアンディ・ウォーホルを、そしてデニス・ホッパー、ゲイリー・オールドマン、クリストファー・ウォーケン、ウィレム・デフォー、ベニチオ・デル・トロと豪華キャストが登場します。

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