【孤高の画家】自然と人間を描き、独自性を貫いたミレーの人生

「ジャン・フランソワ・ミレー」イメージ ブログ
絵画買取ナビ

【外国人洋画】19世紀のバルビゾン派写実主義画家。パリにてポール・ドラローシュに師事。1840年代に入り、パリを離れてフォンテーヌブローの森の近くにあるバルビゾンに移住。農民の日常を描きつつ、その中に深い敬意と詩情を込めた世界観を表現した。そこには、有力者の注文でもなければ、宗教的モチーフでもない、すなわち、画家が自らで題材を選ぶというスタイルがありました。

小さな農場とその住民をモチーフに

「平凡なものを崇高な感覚で扱うことによって、芸術に真の力が与えられる」と語っています。(Artnetより

フォンテーヌブローの森周辺の岩だらけの地形を描いた同世代の画家たちとは異なり、ミレーは小さな農場とその住民をモチーフに作品をおもに制作。

初期の人生

ミレーは、フランスのノルマンディー地方のグリュシー村で生まれました。農民の家庭に育ち、自然や農民の生活に対する親しみを幼少期から抱いていました。彼の芸術に対する興味は早くから芽生え、地元の教師に絵を学びました。

芸術家としての成長

1837年、ミレーはパリに移り、国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール)に入学しました。ここでポール・ドラローシュに師事しましたが、アカデミックな教育方法にはあまりなじまなかったと言われています。

バルビゾン派との関わり

1840年代に入り、ミレーはパリを離れてフォンテーヌブローの森の近くにあるバルビゾン村に移住しました。ここで彼は、農民の生活や労働を題材にした作品を多く描き、同時期に活動していた他のバルビゾン派の画家たちとともに、新しい風景画の流れを作り上げました。

晩年と影響

ミレーは1875年にバルビゾンで亡くなりました。彼の死後も、その作品は広く評価され続け、特に農民の生活を描いたリアリズムは、後の芸術家たちにも大きな影響を与えました。

市場と評価

さて、そんなミレーの現在の「市場と評価」は・・・

版画などが国内でのアート市場でも出品されることはありますが、油彩作品が出品されることは稀です。なお、版画でも復刻や複製もよく流通しており、複製画を掲載した書籍で各自振り分けた1作品として額装したものが有り、取り扱いには注意が必要です。(ギャラリーボヤージュより

なおミレーは生涯にわたって、油彩画は約400点、パステル画は約200点と制作したと言われているそうです。(Amazon: もっと知りたいミレー 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション) : 安井 裕雄, 高橋 明也: 本より

おわりに

画家が自ら題材を選ぶスタイルを貫いたミレー。そんな孤高の画家は死の前年。「自然や芸術がやっとわかりかけて来たのに、この世を去らなければならぬとは、死ぬのが早過ぎる。」 との言葉を残されたそうです。

ちなみに…
代表作のミレーの『種をまく人』の同タイトルは世界各地にあります。1850年に制作された油彩作品は、ほぼ同じ絵を2点描いていて、1点は1917年からアメリカ・ボストン美術館が所蔵、もう1点は山梨・甲府の山梨県立美術館が所蔵。1847-48年に制作された油彩画は現在ウェールズ国立博物館が所蔵。その後ミレーは少なくとも3回、同じ主題を描いていて、1850年以降に描かれた油彩画はアメリカ・ピッツバーグのカーネギー美術館。さらにアメリカ・マサチューセッツ州ウィリアムズタウンのクラーク美術館には1850年頃に描かれたパステル画が、そしてアメリカ・ボルチモアのウォルターズ美術館には1865年頃に描かれたパステル画が所蔵されています。(Wikipediaより

タイトルとURLをコピーしました