【孤独な画家】母親との関係に悩んだユトリロの苦悩

「モーリス・ユトリロ」イメージ ブログ
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【外国人洋画】哀愁と詩情に満ちたパリの街角の作風で、モディリアーニ同様、エコール・ド・パリの画家のひとりであったユトリロ。そのモディリアーニとも交流があり、実は飲み仲間でもあったそうです。

パリのモンマルトル地区の曲がりくねった通りや路地を

「とても退屈な日、私は賢明だが不運なひらめきを得ました」と彼は回想しています。「私はボール紙と、着色剤のチューブと、本物の油がなかったので石油ベースをつかみ、典型的なモンマルトルの街角を前にして、突然、自分がこの難しくて報われない絵画芸術の実践者になっていることに気づいたのです。」 と。(Artnetより

ユトリロは1883年12月26日にパリで生まれました。彼の母親も画家でモデルでもあったシュザンヌ・ヴァラドンで、父親は不明です。

早期の困難

ユトリロは幼少期から精神的な問題とアルコール依存に苦しんでいました。彼の暴力的な行動と度重なる入退院が、彼の人生に大きな影響を与えました。

絵画のキャリア

画家としての出発

ユトリロは母親の勧めで絵を描き始めました。彼の最初の作品は1904年頃から描かれたもので、すぐに独自のスタイルを確立しました。彼の作品は特にモンマルトルの街並みを描いたものが多く、特に風景画は「ユトリロの白」として知られる独特の色調で特徴付けられました。

晩年と死

晩年の生活

晩年のユトリロはアルコール依存から回復し、1940年代にはパリの北部、モンマルトルにあるサクレ・クール寺院の近くに住むようになりました。彼は静かに絵を描き続け、穏やかな生活を送りました。ユトリロは1955年11月5日にドードンヌ県ダクスで死去。パリのサン=ヴァンサン墓地に埋葬されました。

市場と評価

さて、そんなユトリロの現在の「市場と評価」ですが・・・

ユトリロ作風の変遷は、初期の「モンマニーの時代」から「白の時代」、「色彩の時代」と作風の変換を遂げできたが、やはり1907年から1914年ごろの「白の時代」の作品の評価が高く、価値も高い傾向があります。(ギャラリーボヤージュより

生涯を通して、5,000点以上のキャンバス作品を描き、そのほとんどは街の風景を描いたものでした。

おわりに

アルコール依存症の治療の一環として絵画を始めたユトリロ。そして恋多き母親シュザンヌ・ヴァラドンはロートレックやサティらと浮き名を流し、波乱に富んだ性格で、浪費癖になる始末。さらにはその後の再婚相手も浪費癖だったようです。

ちなみに
そんな辛い経験とは対照的な話題ですが、現代ではバラの品種で「モーリス・ユトリロ」という花名がついたバラがあるそうです。産出国はもちろん活躍したフランス。(Wikipediaより

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