【孤独の画家】セザンヌ、再構築の美学と最後の日々

「ポール・セザンヌ」イメージ ブログ
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【外国人洋画】新印象主義の代表的な画家。南フランスの出身で、パリに学び、印象派に参加する。その深い造形性は印象派を超え、キュビズムをはじめとした20世紀、21世紀の芸術に大きな影響を与えている。だが、そんなセザンヌですが、ほとんど生涯を通じて一般には認められなかったそうです。

「近代絵画の父」として評価され

「私たちは見ていると思うものを描くのではなく、実際に見ているものを描かなければなりません」とセザンヌはかつて語っています。「時にはそれが常識に反するかもしれませんが、それが私たちの技術に求められることです。」とも。(Artnetより

セザンヌの作品は、強い構築性と色彩の調和が特徴。物体を円筒、球、円錐といった基本形に還元して捉え、これが後のキュビスムの発展に大きな影響を与えました。また、セザンヌの色彩理論と筆致は、フォーヴィスムや抽象表現主義にも影響を及ぼしました。

生涯の概略

幼少期と教育

セザンヌは、1839年にフランスのエクス=アン=プロヴァンスで生まれました。父親は銀行家であり、裕福な家庭に育ちました。幼少期から絵画に興味を持ち、地元の絵画教室で学びました。青年期には、詩人で後に有名な作家となるエミール・ゾラと親交を深めました。

パリでの修行時代

1859年、父親の勧めでエクス=アン=プロヴァンスの法律学校に入学しましたが、1861年に絵画の道を追求するためにパリに移りました。ここで、アカデミー・シュイスに通いながら、自身のスタイルを模索しました。初期の作品は、ロマン主義やバロックの影響を受け、暗い色調と力強い筆致が特徴でした。

印象派との関わり

1860年代後半、セザンヌは印象派の画家たちと交流し、その技法に影響を受けました。特にカミーユ・ピサロとの親交は深く、ピサロの影響でより明るい色彩と軽やかな筆致を取り入れるようになりました。しかし、セザンヌのスタイルは印象派と完全には一致せず、彼は独自の道を歩むようになりました。

ポスト印象派への転向

1880年代になると、セザンヌのスタイルはより構築的で重厚なものへと変化しました。彼は自然を幾何学的な形態に分解し、構造的な視点から再構築する手法を取り入れました。これにより、彼の作品は単なる視覚的印象ではなく、存在の本質を捉えるものとなりました。

晩年と成功

1890年代に入って、やっとセザンヌの作品は徐々に評価されるようになります。彼はプロヴァンス地方に戻り、自然や静物、人物を題材に多くの傑作を生み出しました。晩年には『大浴女たち』シリーズを制作し、この作品は彼の代表作の一つとなりました。そしてセザンヌは1906年にエクス=アン=プロヴァンスで亡くなりました。

市場と評価

さて、そんなセザンヌの現在の「市場と評価」は・・・

セザンヌ作品に関しては、やはり油彩画が水彩画やデッサンより高額な値がつきます。そしてセザンヌ作品は現在もアート市場でも価格が高騰している作家の一人です。(ギャラリーボヤージュより

なおセザンヌの作品で最も高額で落札されたのは、『サント・ヴィクトワール山』(1888-1890年)で、2022年Christie’s1億3790万ドル(約195億円)で落札されました。

おわりに

「絵画」を自然の模倣の手段ではなく、再構築物と考えていたセザンヌ。物の本質を知るための手段は、やがてキュビズムの画家たちに影響をあたえ、認められますが、拘束されるのを嫌い、孤独を選びます。霧の野外写生で雨に打たれ、やがて肺炎を患って亡くなりました。

ちなみに…
セザンヌを扱った映画としては、フランス映画「セザンヌと過ごした時間」(2016年)(Wikipediaより)があります。画家セザンヌと小説家エミール・ゾラ(Wikipediaより)との友情、確執を描いた作品。 セザンヌ没後110年を記念して製作されたとの事。

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