【日本画】大正ロマンを代表する詩人画家。新聞・雑誌に多くの挿絵を描き、夢見がちで哀愁ただよう、瞳(ひとみ)の大きな「夢二式美人」による作風を築いた。そんな竹久夢二でしたが、30代の半ばより、生活苦に悩まされ、さらには恋愛問題でも波乱の人生を送りました。美人画は非常に人気がありましたが、経済的な困窮や健康問題で苦しむことになったのです。
実ることなく終わったひと夏の恋
「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな」(Wikipediaより)
引用の詩は『宵待草』(よいまちぐさ)は、作詞・竹久夢二の歌曲より。28歳の時の詩でした。
さて竹久夢二は1884年、岡山県邑久郡本庄村(現・瀬戸内市邑久町本庄)で生まれました。本名は茂次郎(もじろう)。農家の三男として生まれましたが、家族は次第に商業に転じました。やがて、1901年、上京して明治法律学校(現・明治大学)に入学しましたが、すぐに中退しました。その後、絵画の道に進むことを決意し、本格的に絵を学び始めます。
芸術活動の始まり
雑誌挿絵と詩作
夢二は雑誌「少女世界」や「セノオ楽譜」などで挿絵を描き、詩や短編も発表。彼の独特なスタイルは瞬く間に人気を博し、「夢二式美人」と呼ばれる女性像で知られるようになりました。
初の画集
1909年には初の画集『夢二画集 春の巻』を出版。この画集は大変な人気を博し、彼の名声を確立しました。
恋愛と創作活動
お葉との関係
そんな夢二は生涯に多くの女性との関係を持ち、その中でも特に有名なのが、石井お葉(いしい おは)との関係でした。お葉は彼のミューズとなり、多くの作品に登場しました。
吉原との関わり
吉原遊廓の女性たちも彼のモデルとなり、独特の憂いを帯びた美人画を多く描きました。
アメリカとヨーロッパへの旅
海外渡航
1920年、夢二はアメリカに渡り、その後ヨーロッパも外遊。パリでは印象派やキュビスムに触れ、彼の作品にも影響を与えました。
帰国と作品展開
帰国後、ヨーロッパでの影響を反映した作品を発表。しかし、日本ではこれらの作品はあまり評価されませんでした。
晩年と死
戦時下の影響
昭和に入ると、戦時色が強まる中で夢二の活動は制約を受け、健康状態も悪化し、1933年には肺結核と診断されました。やがて、1934年、療養のために赴いた長野県の信濃追分で50歳で亡くなりました。最期は親しい友人たちに見守られながら静かに息を引き取りました。
市場と評価
さて、そんな竹久夢二の現在の「市場と評価」ですが・・・
細身で優美な曲線の美人画が特徴の竹久夢二。やはり美人画が人気で、比較的書き込みが多く、色合いのある作品のほうが評価は高いです。(ギャラリーボヤージュより)
おわりに
竹久夢二の代表作『黒船屋』はドンゲンの『猫を抱く女』を参考にしたと言われております。またモデルに関しては別れた第二の愛人・笠井彦乃とも、モデルの永井兼代の姿を重ね合わせたとも。(「文京区 文京ゆかりの文人」より)
ちなみに…
画家・竹久夢二を扱った映画として、鈴木清順監督作品で、主演が沢田研二の「夢二」 (1991年)(Wikipediaより)が有名です。