【外国人洋画】ミュシャと並ぶ20世紀初頭ポスター美術の先駆者。パリ・モンマルトルで娼婦や夜の盛り場に集まる人々を生き生きと描き、1891年『ムーラン・ルージュのラ・グリュー』が認められたことからポスター画家として地位を確立。そんな名門貴族・伯爵家に生まれながら、ロートレックは子どもの頃から身体が不自由で災難の連続でした。
現代のグラフィックデザインや広告にも影響
「現代には、新しいという理由で何かをする芸術家がたくさんいます。彼らはこの新しさに自分たちの価値と正当性を見出しています」とロートレックはかつて振り返っています。「彼らは自分自身を欺いています。目新しさが重要なことはめったにありません。これはただ一つのこと、つまり主題をその本質からより良くすることに関係しています。」とも。(Artnetより)
ポスト印象派の影響を受けながらも独自のものであり、特にリトグラフ(石版画)やポスターの分野で革新をもたらしました。またロートレックの作品は、彼の死後も高く評価され続け、彼の独特のスタイルと視点は、ポスターアートの発展に大きな影響を与え、現代のグラフィックデザインや広告にもその影響が見られます。また、彼の描いたパリの社交界の様子は、19世紀末の文化と歴史を知る上で貴重な資料となっています。
生涯の概略
幼少期と家庭背景
ロートレックは、フランス南部の貴族の家に生まれました。彼の両親は従兄妹同士であり、近親婚による遺伝的問題が影響して、ロートレックは骨の成長に異常をきたしました。幼少期に両足を骨折したこともあり、成長が止まってしまい、生涯を通じて小柄な体型と杖に頼る生活を余儀なくされました。
芸術の道へ
ロートレックは絵画に早くから興味を持ち、パリのリセ・フォンテーヌで学んだ後、ボナ・ロム兄弟のアトリエで学びました。その後、レオン・ボナの指導を受け、エコール・デ・ボザール(フランス国立美術学校)に入学しました。
モンマルトルの生活
1884年、ロートレックはパリのモンマルトルに移り住み、この地域のカフェやキャバレー、ダンスホールで多くの時間を過ごしました。特に、ムーラン・ルージュは彼の活動の中心地となり、ここで出会った多くの芸術家や芸能人が彼のモデルとなりました。ロートレックは、彼らの生活や舞台裏の様子を描いた作品で知られるようになります。
晩年と健康問題
ロートレックは、アルコール依存症と健康問題に苦しみました。彼の身体的な障害とアルコール依存は、彼の精神状態にも影響を与え、しばしば精神病院で治療を受けることもありました。そして、1901年、ロートレックは36歳で亡くなりました。
市場と評価
さて、そんなロートレックの現在の「市場と評価」は・・・
復刻版画などは、国内のアート市場でも時々出品もありますが、当時ロートレック本人が制作した作品が出品されることは少なく、やはり海外のアート市場が主流です。(ギャラリーボヤージュより)
生涯にわたって、1,000点を超える絵画、水彩画、400点近くのポスターや版画、5,000点を超えるデッサンを制作。
おわりに
病的な飲酒癖、娼婦への耽溺は、コンプレックスをまぎらす為の悲劇的な反応だったかもしれません。30代半ばでロートレックは、目に見えて衰え、1901年母に看取られて、生涯を終えました。
ちなみに…
ロートレックが登場する映画として、個人的にはウディ・アレン監督作品「ミッドナイト・イン・パリ」 (2011年)(Wikipediaより)を思い出します。ハリウッドの脚本家の主人公が、憧れのパリで滞在中に、1920年のパリにタイムスリップして、さらに1890年代ベルエポック期へと。ロートレックはチラッとだけ登場しますが、フィッツジェラルド、ヘミングウェイやダリなどの偉人たちと出会う楽しい作品です。